大野更紗著『困ってるひと』(2011年)

大野更紗さんの『困ってるひと』(ポプラ社、2011年)を読む。

困ってるひと

困ってるひと

筆者の大野さんは、20代半ばにして、自己免疫系の難病に冒される。不治の病である。
病気を発症し、病院をたらい回しの上に病名が判明し、治療が行われ、病院の「外」で生きていくことを決断するまでが描かれたノン・フィクション作品だ。

旅行の帰り、新幹線のなかで一気に読んでしまった。
本書の内容の「濃さ」もさることながら、センスのよい表現、テンポのよい展開に、ぐぐっと引き込まれた。

印象的だったことを、いくつか述べてみる。

第一に、「困ってるひと」が生きていくためには、しっかりと設計されて、誰にもわかりやすく、シンプルで、しかも持続可能な「制度」が必要ということだ。

大野さんが、自らの苦境を何とか乗り越えようと、友人・知人に頼ってしまったこと。
しかしそれが、周囲や自分も追い込み、結局のところ、「持続不可能な」関係でしかなかったこと。
最後に頼れるのは「制度」、そしてそれを利用する「私」だ。

日本の医療制度、福祉制度の「問題点」が、「突然難病に冒されて、生きていくのもやっとで、常に生死の境に漂っている女子」の視点で鋭く描かれる。
「障害」をもった人が社会で生きていくための制度は複雑で、ころころと変わり、また、住んでいるところによっても違う。
また、大野さんは、身体の節々に常に痛みがあり、「おしり洞窟」という爆弾を抱えているにもかかわらず、「入院日数の短縮」と、それによる医療費の削減という「現代日本の諸事情」によって、突然の退院を余儀なくされ、主治医には、「実家帰り」をしつこく勧められる。
実家である福島で、大野さんの状況に適切に反応できる医療機関がないことは明らかである。

第二に、難病女子が「社会」で生きることの意味である。

このオアシスの、門の外で生きるんだ。わたしは外に、「社会」に出るのだ。「社会」とのデスマッチを繰り広げるのだ。死んでいたわたしは、未知のおニューなわたしとなって、生まれ変わる。退院日、2010年6月23日は、わたしの二つ目のバースディにしよう、と決めた。
(p.296)

社会という語が、カギ括弧付きで使われている。
何か、「生きる」ことの意味を考えさせられた。

病院のなかで、医師や看護師にお世話され、なにか「異常」があれば、それに対する「対処」が真摯に追求され、適切な「措置」がされていく。
たしかに、大野さんのような難病をもった人にとって、病院の「外」で生きることには大変な苦労や困難があるだろう。
しかし彼女は、病院の「外」=「社会」で生きていくことを選択する。いや、「選択せざるをえない」のである。

病院の外は「社会」であろう。でも人は、「社会」で生きていこうと考えた時点で、どこにいたとしても、「社会」で生きていることになる、のだと思う。

どんなにスーパードクターであっても、人は人。
難病女子であっても、人は人。
だからお互いに誤解し、衝突し、時には決裂し、そして心から信頼することができる。
信頼はする。しかし、人は人であり、私とは違う。
だから私は、私のままで生きられる道を選択する。
それが、「社会」のなかで生きる、ということなんだろう、と思った。



私の母も闘病中だ。
しかし、病院は、高速を車で飛ばして1時間半のところにある。
医者は、抗がん剤治療を「通院」で、という。
しかし母は、「入院する」ことを希望し、それをごり押しする。
病院から、世間からみれば、「迷惑」な存在だろう。

でも必死なのだ。どうにかして生きていこうと。